毎日放送
チーフアナウンサー
西 靖さん

2019.12.11 wed

メディアに興味を持ったキッカケ

子どものころから人前に出てしゃべりたいタイプではありました。頼まれもしない壁新聞を作ったり、それを発表したりしてましたから、取材して伝えるということに関わりたいなと思ってたんですね。昔の写真を見ると学芸会の司会をしたり、アナウンサーの役をやったりもしていて、何かを伝えることに興味があったんだと思います。

好きだったテレビ番組

父のこだわりで一家に一台しかテレビがなくて、見る時間も制限されていたので、逆にテレビの向こう側に無限の楽しさにまだ触れていないという渇望感がすごくありました。中学生になってどっぷりはまったのが深夜ラジオ。まあ、あのころはみんな聞いてたんですけど。小堺一機さんと関根勤さんの深夜ラジオが大好きで、話している内容は全部は分からないんだけど、ものすごくワクワクしました。テレビでは高校生ぐらいのころにダウンタウンさんが出てきて、「夢で逢えたら」という番組でウッチャンナンチャンさんたちとコントをやっているのを夢中で見ていました。新しいエンタメの空気みたいなものを感じたのを覚えています。

ニュースで言いますと、ベルリンの壁崩壊映像をテレビで見たのが衝撃でした。小学校で習った東西冷戦構造が崩れて、壁の上で若者がハンマーを振るっている姿を見たのが「映像メディアってすごいな」という原体験になっていると思います。

放送局を志望して

実は大阪の他の放送局の入社試験を受けているときに、隣に座った学生が「MBS(毎日放送)受けないの?」って聞いてきて、「明日締め切りやで」って教えてくれました。あわてて次の日に願書を持って行ったんですよ。ずいぶんいいかげんな学生です。周りの志願者が控え室でアクセント辞典を持っていたり、発声練習をしていたりして。私はアナウンスの勉強は未経験でしたから、えらいところにきてしまったなと(笑)。放送局の採用は一般、アナウンサー、技術と別れているんですけれど、少しでも採用の確率が上がるかなと思って、一般職とアナウンス職の両方を受けました。最終面接の手前くらいで、MBSの人事の担当者から「両方残っているけど、どっちにする?」と聞かれて、ちょっと迷った顔をしたら、その人が「アナウンサーで受けとき。落ちたときは落ちたときでなんとかするから」みたいな融通を利かせてくれて。その雰囲気で「なんか、いい会社だな」と思って決めたというところもあります。

実際に入社して

入社して研修を受けて5月になるとそれぞれ配属が決まりますが、アナウンサーは配属後は毎日、朝から晩まで会議室にこもって、ひたすら発音、発声、アクセント、原稿読みの研修です。同期で報道に配属されたやつなんて、もう現場に行って、原稿書いて、リポートしてたりしているのに、こちらは発声練習だけやっていて何かすごく焦っていましたね。仕事人生は長いんだから、焦らなくてもいいんですけど、アナウンサーで採用されたからには、すぐに取材やリポートやニュース読みをしたいと前のめりになってたんですね。

初鳴き(アナウンスのデビュー)は8月の終わりだったかな?住之江競艇の結果を1分間ラジオで読むというものでした。夕方の仕事なんですが、朝から、いや前日からドキドキしていて、無我夢中で読み終えて、うまくいったのかどうかも自分ではわかりませんでしたが、後から聞くと読み始めに息を吸う大きな音がはっきり聞こえてましたね(笑)

手応えをつかんだ震災

入社した年度の1995年1月に阪神淡路大震災がありました。局の近くに住んでいたので、すぐにバイクで出社して、次々と入ってくる原稿を、震災の全体像もつかめないまま切ったり貼ったり編集して、先輩アナウンサーに渡して、そのうち読み手を代わって、最後は2人で卓に座ってかわりばんこに読んで、他のアナウンサーが局にたどり着くまで、なんとかスタジオを支えました。

次の日はバイクで神戸市役所まで行きました。なにせどの道がどこで通行止めになっているかの情報すら不確かな状況でしたから、路地を縫うようにして、途中でラジオのリポートなどもしながら向かいました。不謹慎なんですが、やっぱり現場に行くと、特ダネを探してやろう、よそと違うことを伝えてやろうとソワソワというか功名心のようなものが芽生えました。若かったですね。神戸市役所の災害対策本部から発表された情報をラジオでリポートしたんですが、その中で「神戸市では支援物資の受け付けを始めました。足りないのは○○です。義援金の受付もはじめました。振込口座は、、、」という情報がありました。数ある情報のひとつで、あまり意識していなかったんですが、スタジオにはベテランの角淳一アナがいて、「ちょっとまって。義援金の情報ね、すごく大事だから、もう一遍伝えて」と言いました。今なら分かるんですが、何が大事か、角さんに言われてはっと気づかされました。

また、断水し、ガスも止まっている時期に銭湯の無料開放の情報もリポートしたんですけど、数年経ったあとのセンバツの取材でアルプススタンドにいたとき、おじいさんから声をかけられたんです。「西さん、震災の発生直後に、ラジオでお風呂の情報を伝えてくれたね。あれで私は一息つけたんだ。ありがとうね」と言われました。あれは泣きましたね。「あ、こういうことか」と。手ごたえって、その場で感じると思いがちですけど、「本物の手ごたえ」って、あとから時間差で、そして外からくるもんなんですよ。それは長く仕事をしていると本当にそう思います。銭湯の情報なんて、特ダネでもなんでもないんですけど、ちゃんと伝わってお役に立てたと知ると、それはすごい手ごたえですよ、本当に。特ダネばかり探してた当時の自分に教えてやりたいです。

「ちちんぷいぷい」へ参加

関西で20年続いている午後の情報番組「ちちんぷいぷい」が角淳一さんをメインに始まったのは1999年。私は入社5年目でしたが、スタートした当時の構想には入っていませんでした。角さんがいて、各曜日女性アナウンサーがアシスタントでついて、1ヶ月たったときに、角さんとプロデューサーが話し合って、角さんが「火曜日がしんどい」と言ったそうです。火曜日はハイヒールさんと高井美紀アナウンサーが担当していたんですが、角さんが「女性3人が自由すぎる。受け止めきれない」といったそうです。それでそのプロデューサーがアナウンサー室に来て、たまたまデスクにいた僕に「ちちんぷいぷいのスタジオに出てくれへん?」と声をかけました。「アシスタントですか?」と聞いたら、「うーん、重しというか、とにかく座って、角さんがなんか言うたら相槌打ってくれたらええねん」ということでした。リポートもしないし、原稿も読まない、明確な役割がないというのは戸惑いましたけど、角さんの言葉になんか茶々を入れていたら、「ちょうどよくなった」と言われて、火曜日はなぜかアナウンサーが2人いることになりました。その後、このちちんぷいぷいのMCを引き継ぐことになるわけですけど、当時はそんなことは想像もしていませんでしたね。

一皮“むかれる”仕事

ちちんぷいぷいが軌道に乗って、私もだんだんいろんなことを任されるようになったんですが、西は真面目すぎて殻を破れていない、もっといい仕事ができるはずなのにもったいない、と角さんが思っていたみたいなんですね。当時僕が髪の薄さを気にして「触れてほしくない」という空気を出してたのを感じた角さんが、それを何かのきっかけにしようと思ったのか、「なんでみんな言わへんねん。西ははげてきてんねん」と番組でいきなり言ったんです。もうびっくりして。いやショックでしたよ。そっとしておいてほしいのに(笑)。そしたらまたプロデューサーが僕のところにやってきましてね、「西の薄毛をいじる企画をやるけどええよな?次のステップや」と言ったんです。ええよなっ?て、言われても嫌に決まってるじゃないですか。本気で嫌でした。出社拒否したろうかと思ったぐらいです。ヤマヒロさん(山本浩之アナウンサー)のようにぱっかーんと一夜で変身(出演番組でかつらを外してカミングアウトした)みたいなキャラクターじゃないですから、私。「こんなことで人気者になりたくない! 僕はアナウンサーで芸人ちゃうんねん!」と心の中で叫んでいました。それで一皮むけるというか、むかれたんです。抵抗むなしくね(笑)。今振り返るとアホみたいな抵抗ですけど。

過酷だった世界一周

その後、開局60周年に合わせて60日間で世界一周という企画の白羽の矢が立ちました。それはもううれしかったですね。会社員の立場で世界一周なんて、そうそうある話じゃありません。ただ、「西は殻を剥いたほうが面白い」という方程式が確立してしまっていたからか、旅の行き先は西本人には秘密、行き当たりばったりで!という仕立てになっていました。
60日で20数か国ですから、体力的には相当過酷でした。欧州や中南米のときは昼間はぎっちり取材して、真夜中は生中継でほとんど寝ていなかったです。ただ、旅の後半は体力的にはつらいものの、手ごたえというか、うねりみたいなものも感じていたので踏ん張れましたけど、旅の序盤、台湾やマレーシア、ブルネイあたりの頃は何を要求されているのか全然分からないし、スタジオともかみ合わないし。放り出すだけ放り出されて、とずいぶん悩みました。

特に覚えているのが2カ国目のマレーシア。大雨が降っていて、みんなレジ袋を頭にかぶっているんですよ。これがとってもキュートでユニークだったから、中継でリポートしようとスタンバイしてたら、中継の直前に雨が止んでしまって、みんな普通の姿にもどっちゃった。またしても手応えのない中継になってしまって、誰のせいでもないんですけど、めちゃくちゃ落ち込みましたね。

気づきは外から

直後に当時ラジオでご一緒していた笑福亭鶴瓶さんの番組に電話中継で出て、「どうなん?」って聞かれて、まあ、ほとんどふてくされたような状態で「全然思うようにいきません。何がおもしろいかもわからなくなりました」って正直に愚痴をいいました。そうしたら鶴瓶さんが「何が見えんの?」って聞かれて、「何もないです。指がこげるほど短くたばこ吸っているおっちゃんがいるだけです」って言ったら、「話聞いてみい」と鶴瓶さんがおっしゃって。当然言葉も通じなくて、何にもリポートできなかったんですが、そこで鶴瓶さんが大笑いして、「思うようにいかんおまえって、めっちゃおもろいわ。思うようにいかんってそのまま言うたらええんや。それがいちばん嘘がなくておもろいで」と教えられたんです。なんか、スコーンと抜けたような気がしました。

前にも言いましたけど、気づきは外からやってくるんです。自分で自分を演出してみてもどうしたって限界があります。自己規定したらあかんのですね。自分の価値は、案外他人が見つけてくれます。
いま40代後半で、もともとやりたかったニュース番組をやってますけど、このままニュース番組をやり続けるかどうかはわかりません。やりたかったジャンルの仕事ができたからといって、これが自分の到達点だと決めちゃうと、それはそれでもったいないじゃないですか。もういっぺん、あわてふためくような仕事があるかもしれないし、いじってくれる後輩が出てこないかと期待もしている。あのしんどい暗中模索をもう一度やるのかと思うと大変やなぁとも思いますが、それでもやっぱりワクワクしますね。

ニュースキャスターとして

社会的に興味を持っているテーマもあるにはありますが、いちばん意識しているのは、論調が一方向に流されないように、できるだけ違う角度から発信するということです。例えば先日、神戸の教員のいじめ問題で、条例で加害教員の給与を差し止めるということがありました。こんなやつに有給休暇を取らせて給料を払う必要はない、という世間の気分は本当によくわかるんです。教師の資格はないと思うし、厳しい処分が必要だと思いますが、そのためにこれから事実関係の調査があって処分があるのに、先に処分をしてしまうというのは二重処分になる恐れがあります。それに、条例を制定する前の出来事まで遡って適用するというのは法理論の原則を侵しているとも思う。気分に任せて人を罰することは、法治国家ではやってはいけません。
ことほど左様に、世の中が「そうだそうだ!」と一方向に動いているときには、ちょっと待てよ、おかしくないか?と角度をずらすのが大事だと思っています。

皆さんへのメッセージ

何度も申し上げましたけど、「自分とはなにか」って、驚くほど自分ではわからないものなんです。仕事をしていると何度もそれを痛感しました。きっと就職活動も同じことが言えるんじゃないかな。確かに自分をPRする場ですけれど、「私は○○です」と規定してしまっては、新しい発見はない。面接官に新しい自分を見つけてもらうくらいの「飛び込んでいく感じ」で臨むとワクワクできると思います。私の場合なんて、就職活動を通じて自分がアナウンサーに向いていると教えてもらったくらいですから。
テレビ、ラジオというのはいろんな魅力がありますが、「生ものに触れられる」ことが一番楽しい。一次情報という生、現場という生、タレントさんという生に触れるところで仕事ができるのが最大の喜びです。
右肩上がりの成長業態というよりはすでに成熟した業界だ、というのはそのとおりでしょうけれど、問題提起をし、世論を動かし、いい社会を作ったり、新しい面白さを提示する力は、テレビ、ラジオの大きな強みです。歴史があるからこそ先輩が築いてきたものをぶっ壊すこともできるし、こんなことやりたいというアイデアをぶちこんだときのフリクションや化学反応はすごく面白いと思う。若い人たちに、こんな放送だったら見たい、聞きたいというアイデアをもって飛び込んできてほしい。昔のテレビは面白かったなんて、言いたくもないし、言わせたくもないという、やんちゃな人を待っています。

プロフィール

1971年 岡山県岡山市生まれ。大阪大学法学部卒。1994年、毎日放送に入社。1995年にアナウンサー1年目で阪神淡路大震災を経験。戸惑いながらも取材経験を積む。2010年に開局60周年企画「60日間世界一周」の“旅人”として23の国、地域を駆けめぐる。2011年から「ちちんぷいぷい」メインパーソナリティ。2014年からは報道番組「VOICE」メインキャスター。2019年春の番組改編でニュースゾーンが「NEWSミント!」に改編。引き続きメインキャスターを務める。
他に、神戸女学院名誉教授で思想家の内田樹氏と精神科医の名越康文氏とともに深夜番組「辺境ラジオ」を担当。両氏が大胆かつ自由闊達に時事を語る良質な言論空間で、不定期ながらファンが多く、書籍化もされている。

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