番組制作者の声

読売テレビ放送
報道局解説副委員長
高岡達之さん

2020.1.10 fri

メディアに興味を持ったキッカケ

元々ラジオっ子だったんです。それで毎日放送でラジオのADのバイトをしていました。年収1000万円ほしい、早くお金をもらえるようにと思って、テレビ局はお給料もいいし、楽しいこともできるし、両立できると思った。
面接の時も正直に「テレビ局は楽しくて、はよ金もうかるから」と言ったら「君は金しか言わないのか?」って聞かれて、「一刻も早く年収1000万円になりたい」と言ったんです。バリバリ働くと思われて最初は営業に配属されました。

最初は営業に

営業は1年ちょっとしかいませんでしたが、社会の基本的なことを学びました。テレビ局は配属されるところによって、全く違う会社だと分かりました。最初にそれを学んだのは良かった。

報道の現場に出て

営業の時の部長が報道に異動になったというので、頼んで自分も報道に異動させてもらったんですが、配属初日に「もう会社に来んでいい」っていわれて、次の日から大阪府警回りの担当になりました。いきなり西成暴動(1990年に17年ぶりに発生した平成で初の暴動事件)が起こって、すぐに現場に行きました。大阪のテレビは大きなことがあったらすぐ現場でしたから、イトマン事件(1991年に発生した商法上の特別背任事件)も雲仙普賢岳(1991年6月3日に発生した火砕流では大規模な人的被害が発生)も行きました。ずーっと現場ばかりで、いまでも編集とかはできないんですよ(笑い)。

報道の極意とは

報道はライブです。僕は人生もライブだと思っています。ライブがうまくいかないと誰も見ないと思います。

ライブの肝は、しゃべり続けないといけないと思わないでいいんです。句読点、特に句点が大事。一文が並んでいるとすごく聞きやすい。短いことばできちんとレポートするんです。今の人は黙ることが怖いので、ひたすらしゃべろうとする。
最近はスマホで打った原稿を手にレポートしている記者を見ると違和感がある。手ぶらになれば、全人格で勝負することになる。これまでに読んできた本、天気、着ている服、目に見えるものすべてで勝負しなければならない。そういう訓練をしないといけない。

どうやって学んだ

基本は盗みました。学生のころから人と同じことが大嫌いだった。そのころ、キャスターとして人と違うことをやっていたのがニュースステーションの時の久米宏さんだった。久米さんは他と全く違うアンカーを目指していたと思う。久米さんの真骨頂はリードを読んで、VTRを振るときです。「VTRをご覧ください」「現場を取材しました」などとは絶対に言わない。例えば台風被害の現場だったら、「○○町、今日ブルーシートを張ったご主人の声です」と入る。それは盗みました。

あとはテレビ朝日の渡辺宜嗣アナウンサーです。渡辺さんは自分を主語にするんです。ポケモンショック(1997年にアニメ「ポケットモンスター」で視聴者が光過敏性発作などを起こした)があった時、すぐにニュースステーションでレポートしていたんです。何も発表もない状態で「テレビ東京の前です。私はポケモンを見ませんが、息子が見ていたというので先ほど電話しました」と始まって、そこから「息子が言うには」で全部続けていくんです。「息子が言うには搬送されてはいませんが、○分ごろから画面がチカチカしてきた。気分が悪くなった。母親に言うと『そんなことはないでしょう』と言われた。そのことを報道フロアで聞きました」と。これはすごかった。記者やアンカーは常に名前が出ている。視聴者は何が起きたかネットでも事実を知っている。テレビのレポートを見るとすれば、その人がちょっとした見解をいうところを見ているんです。

気づいた瞬間は

大きなきっかけは特派員。26歳でカンボジアに行ったのが最初。1992年に日本の自衛隊が初めてPKOの一環として海外に派遣されたので、1ヶ月100本ぐらいの中継をやりました。そのためにプノンペンじゅうを歩いて、ネタを拾った時、横には世界のメディアがいた。世界のメディアは今日あったことよりもその意味を伝えていた。
CNNの記者などがレポートするとき、必ず自身の見識を語る。テレビが残るとしたらこれだし、それを語れるだけのバックボーンがないといけないんです。世界のジャーナリストは自分の所属する会社名で仕事をしていない。

現地語も通じないので、スケッチブックに絵を描いて、取材していました。20代でそうしたチャンスに恵まれて、手法や伝え方を世界の現場で学びました。

記者から解説へ

ある程度歳を取ってきて、若い後輩に譲っていこうと思って東日本大震災ぐらいから現場に行かないようにしました。災害と戦争はド素人でもジャーナリストになれる。すべてが驚きで、すべてが予測外のことだから。僕たちは1週間後、3ヶ月後に行って後輩たちが気づかないことが見える。それが年の功だと思う。最近は大きな事件ほど初動は行かなくなりました。行けば伸びるんです。

新聞の一面に出ているんだけど、そこには書いていない本質の部分を僕は語ろうと思っています。それを知りたいという人が僕のいいお客さん。そのために引き出しがどれだけあるか。それがウリ。その仕入れを毎日やっている。何が来るかは勘ですね。

インプットの方法

(1985年の日航機墜落事故をテーマにしたドラマ)「クライマーズ・ハイ」で、地元紙の部長が「記者のやってる仕事はみんな同じだ。全国紙だろうが地方紙だろうが、コツコツ調べ、こそこそ人に話を聞く。それだけだ」というセリフがありましたが、僕もとにかく人に会いに行く。国会で予算委員会の傍聴席にも行く。肌感を大事にしている。ちょこちょこ歩いて人にあって、こそこそ調べて書く。若い記者には会社にいるな、パソコンで調べるなと言ってます。とにかく行くか、聞くか、歩くかということが大事。

民放の良さ

大阪局なら基本関西での生活になる。自分の人生について、どこで家庭を作って、子供を育てるか、どこで生きるか決められるのは大事。足場がしっかりしますから。地方のテレビは結構手作りなので、全部やれる。大阪にいたから、事件もやって、政治もやって、特派員もやれた。

戦後60年の時に硫黄島で特番をやったんです。今も硫黄島って普通には行けないんです。防衛省で事務次官に頼んでもノーと言われる。防衛記者クラブにも入っていない記者だからと。最終的に小笠原村の村長に掛け合った。そうしたら「来ますか」っていわれた。村長はお父さんが硫黄島で亡くなっていて、年に2回遺骨を拾いに行くんで、首長として連れて行ってくれた。そこで中継ができたんです。アイデア次第でそういうことができるんです。

メディアを目指す皆さんへ

私は入社試験の面接の時、自分のお父さん、お母さんのことを説明してもらいます。「いい人です」では画が見えてこない。これまで最高だったのは、お父さんのパンツが毎日汚れていてその洗い方を説明してくれた子がいた。最初に「うちの父は毎朝パンツが汚れていて……」というところから始まって、もう心をわしづかみですよ。でも最低限の常識はわきまえていて、「根底に父を尊敬していて大好きです。汚れたパンツはお母さんが可哀そうだから、私が洗っています」と言うんです。最高の愛でしょう。すぐに採用してくれって人事に言いました。

テレビに不満のある人、テレビがつまらないという人に来てほしい。つまらないという人はテレビを見ている。文句だけいうんじゃなくて、何か提言してくれる人に来てほしい。スティーブ・ジョブズだって、それまでに不満があるから新しいものを作ったんですよ。

プロフィール

1963年12月7日生 大阪市出身。1988年 関西学院大学法学部政治学科卒業 読売テレビ放送入社
一貫して報道畑を歩み、西成暴動(1990年)、雲仙普賢岳火砕流、信楽列車事故、一連のオウム真理教事件、硫黄島、神戸小学生連続殺傷事件(酒鬼薔薇事件)、和歌山毒入りカレー事件、日本初の脳死移植、明石歩道橋事故、尼崎JR事故などの取材を経験。海外取材もフィリピン・タイ・インドネシア・マレーシア・ベトナム・ブルネイ・シンガポール・カンボジア・ニュージーランド・オーストラリア・バヌアツ・パラオ・グアム・中国・台湾・大韓民国・朝鮮民主主義人民共和国・アメリカ・フランス・イタリア・オランダ・ケニア・ザイール・ルワンダ・南アフリカ・パキスタン・アフガニスタン・インドなど。
2009年7月~編成局制作センター・チーフプロデューサー、その後、報道局・チーフプロデューサー、報道局・解説委員などを経て2019年6月から報道局・解説副委員長(現任)。
「かんさい情報ネットten! 」「情報ライブ ミヤネ屋」のニュース解説では、報道記者としての経験に基づいた切れ味するどいコメントで「タカオカ目線」として人気を誇る。

プロデューサー・記者として、阪神大震災特番「ふるさと」(1996年~3年間)、酒鬼薔薇事件特番「いのち」(1998年)、児童虐待特番「まなざし」(2004年)、阪神大震災10年特番「決断」(2005年)、戦後60年特番「この国のいくさ“命どぅ宝」(2005年)、JR福知山線事故1年報道特別番組「今日も明日もこれからも」、日本テレビ系列取材総合デスク・プロデューサー(2006年)、「インサイド・ザ・フェンス」在日米軍・沖縄海兵隊の日常(2007年)などを制作。
2018年4月から~関西学院大学法学部講師も務める。

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